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津軽三味線の歴史 その3

つまり簡単に言えばそんな目立ちたがり屋さんが若干の人気を博したので、多くの津軽三味線奏者が、それまで瞽女と同じ中棹や細棹を用いていたものが太棹になり、撥は速弾きに適した小振りなものとなり、音楽もまた一部に「叩き」と呼ばれるパーカッシヴな奏法を用いた、複雑かつハイテンポなものに変化していったようです。

竹山自身、「三味線なんて音が大きく出ればそれで良かった。音が大きいから太棹を選んだんだ」と語っており、より目立つため、技量を誇示するために、大音量で複雑かつ高度な技術を盛り込んだ音楽が発達したと言えます。
「津軽三味線まんだら」の北海道芸能松村一郎によると、マイクが現れたのは昭和29年ごろで、それも最初は大きい劇場に限られていたそうで、 照明も同様で、ドサ回りの小屋はロウソクやランプをともしたところも多かったそうです。声が聞こえず照明が暗ければ、観客の罵声が飛び交うことになり、張り裂けんばかりの声で唄い、 一の糸で豪快な響きを添える津軽民謡の特性は、その頃の貧弱な舞台事情から産まれた。とあります。

そうして昭和40年代の民謡ブームで津軽三味線は一世を風靡します。

それまで単に「津軽もの」などと呼ばれていたこの三味線音楽を、三橋美智也らが「津軽三味線」と称して、以後定着をみます。

本来は単なる伴奏楽器として、観客に見えぬよう舞台袖で演奏するものだったが、時代が下るにつれ、三味線のみで演奏する前奏部分(前弾き)が独奏として独立していったんですね。

 

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