津軽三味線に関する多くの口伝を調査・記録し、文書としてまとめたのは大條和雄(だいじょう かずお)がほぼ初めてで、現在認識されている津軽三味線の歴史については、彼の研究成果に依るところが大きいと言われています。
しかし、それもまたあくまで伝承を再構築したものに過ぎないので、多分にフィクション的要素も含まれているとして、史料としての価値は低いとも言われています。
その大條によると、津軽三味線の始祖は、幕末に五所川原の金木地区に生まれたボサマ「仁太坊」(にたぼう)。
それまで地味な門付け芸だった三味線音楽に革新的な奏法を取り入れ、津軽三味線の原型を築いたと言われています。
その仁太坊と共に、黒川桃太郎や梅田豊月らが競い合いつつ、さらに時代がくだり、高橋竹山・白川軍八郎・木田林松栄らの演奏家が出るに及んで、津軽地方の三味線は他の三味線音楽とは全く異質な音楽として発達を遂げることになります。
三味線も細棹ないし中棹から太棹に変化し、奏法も「叩き」を中心とする打楽器的な奏法が人気になり主流を占めることになります。
高橋竹山の著書によると、お祭りがあればその神社の境内にはずらりとボサマ達が並び、互いの腕を競い合うかのように三味線を演奏していた。そんな環境の中、津軽三味線草創期の名人と呼ばれる人々は、他のボサマより目立つために、より大きな音・派手な技を追求するようになる。三味線は、それまで瞽女と同じ中棹や細棹を用いていたものが太棹になり、撥は速弾きに適した小振りなものとなり、音楽もまた一部に「叩き」と呼ばれるパーカッシヴな奏法を用いた、複雑かつハイテンポなものに変化していった。竹山自身、「三味線なんて音が大きく出ればそれで良かった。音が大きいから太棹を選んだんだ」と語っており、より目立つため、技量を誇示するために、大音量で複雑かつ高度な技術を盛り込んだ音楽が発達したと言える。
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